人生は退屈か、消化か、劇的か。

もう毎日更新とか無理です無理。人生において足蹴なく続けてるもんなんて呼吸ぐらいが限界です。
お盆休み第1期はドラクエを2本終わらせました。ゲームでもカジノにハマってるどうしようもなさです、笑えよ。

今日はお盆休み中に見た映画だったりの命の話。
命。LIFE。なくなると死ぬ命。
幼稚園の頃からとっても死に対しての認識がとってもふわふわしてました。
アリを踏むと動かなくなる。家に入ってきた害虫を雑誌で叩いて動かなくなる。
死んだって言う認識じゃなくて昔から動かなくなるって認識でした。人は食べる為に家畜を殺すし、食物連鎖の調整で駆除もします。
それは今の時代だからではなく食物連鎖というか地球のカーストの一番上に人間が来てるから特に罰もなく日常的に行われることで、それを常習することによって得たものが同種間に置ける死の敏感さだと思うんですよね。
命は平等ですなんて聖者のことを言うつもりもサラサラないけれども人間の死に対しての重さ。すごいですよね。
人死んだへ~で終われる人のがちょっとすごいとは思いますけど。
そもそも死ぬってなんなんでしょう。定義的には、心臓の動きが止まって生命活動の維持が止まる、医師が死亡と判断したら。
とかなんでしょうけど、例えば植物状態で話すことも何かを認識することも不可能だけど生命活動は現代科学の結晶のおかげで維持出来てる。
これって生きてるって言えるんでしょうか?
中学の頃に初めてリアルな人の死に触れたのですが、(多くは語るまい)なんていうか死んだって認識できないんですよね。受け止められない。今でもそうです。
動物がとっても大好きで家でマルチーズ9匹とか飼っちゃう人生を歩んできて、老衰や病気で何匹かここ数年で亡くなったりもしてわぁわぁ泣くかなぁと自分でも想像したりしたんですが、意外と涙って出てこない。
いつもいる子がそこにいない悲しさはあるんですが、死を受け入れてないんですよね。犬の場合顔の微妙な違いも吠える声や毛の感触も未だに全部忘れられないんですよね。だから想像してたよりも寂しくないというか、いや寂しいんですけどね。
だから自分の思える死って言うのは、臓器的云々とかじゃなくてそこに居たっていう存在を忘れてしまうことなんじゃないかなぁって思うんですよね。
生きてても誰とも関わらず部屋から出ず、シャットアウトしてしまい、生きてても死んでるも自分でしかわからない。そういう生き方って定義上生きてるって言えても本当の意味で生きてるって言えるんでしょうか。
命の定義って人それぞれってことなんですかね。

いやいやこんなこと考えるようになってしまってほんとジジィですね(笑)
休み期間中外界をシャットアウトしてたせいかいつもより駄文な気がします。
人はこうして老けていく。来週26になっちゃうよあっはっは。誕生日は仕事休みます。誰か厚木まで飲みに来てくれてもいいよ!!(私は厚木からさらって)
そんなこんなで明日から仕事復帰です。頑張って生きよう。

お疲れ様。ゆっくり休んでね。